こぽこぽと音を立てて泡が立ち上る。
内蔵モーターのぶうんという低音は、慣れるとあまり聞こえなくなるらしい。
耳障りだねと言っていた男も、次第にその音に意識が向かなくなっていた。
相変わらずモーターは動いているが、男は黙っている。

俺はその沈黙を良しとも悪しともせずに、買ったばかりの本を袋から出した。
ベージュ色の紙製のブックカバーが微かに青白く変色して見える。
水槽は、今この部屋における唯一の光源になっていた。



『空虚水槽』



「君も酔狂だよね」

思い出したように喋り始めた。

「何が」

「水槽だよ」

ソファに身体を沈めている様子はどことなく気怠い。

「これか」

視線を青白い光を放つ硝子ケースに向ける。

「それ以外無いだろう」

それ、と言いながら面倒くさそうに指示する。
その割には、指先のほんの僅かな角度さえもきちんと計算しているかのように見える。

人差し指を美しく見せるにはその角度だ。
これが本当に計算なら、恐ろしい男である。

「酔狂か…それは初めて言われたな」

泡は規則的に放出され、その度に何とも言えない音を立てる。
軽快でもない。
楽しくもない。
優しくもなければ、冷たくもない。

「だとしたら君は暫く誰も―――俺以外の誰も、この部屋には上げてないんだね」

表情を作る前の平たさは、水槽のせいで余計に目立った。

敷き詰めた砂利は真上の蛍光灯に照らされているせいで、青みがかったような黄色に―――大層不健康そうな色に見える。
水草が泡に煽られて揺れる。
あとは、透明な水だけ。

それで全部だった。

「どうして」

「中身が無いじゃない。正確に言うと、主役が居ない、なのかな」

熱帯魚の一匹や二匹入れとくものじゃないの、こういうのは。

臨也は不思議そうに言う。

「ああ、中身ならあるんだよ」

こぽこぽと音を立てて泡が立ち上る。
沈黙が流れると、それを埋めるように機械の音が割り込んでくる。
水草が揺れている。
中の水は常に対流しているのだ。
動かずに水槽に溜まっているだけのように見える水も、決して一定の状態では有り得ない。

「―――どういうこと?」

訝しむような声音。

「『めだか』が居る」

ごぼりと音が鳴り、大量の泡が吹き出した。


/


「めだか馬鹿ってのはすくえない馬鹿者のことを言うんだよ」

そう言ったのは紛れもなく臨也だった。

「君の誠実さは"めだか"と称するに値するね」

面白くも何ともないのに、一時期ずっとめだかめだかと呼ばれていた。
しばらくするといつものように「ドタチン」と呼び始めたので、やはり飽きが来たのだろう。

けれど臨也が飽きようが飽きまいが、一度聞いた小咄なんてのはそうそう忘れられる物でもない。
何か有る毎に「ああ、あいつは"めだか"だな」と頭の片隅で考えているのである。


そもそもどうしてめだかが「すくえない」事を意味するのかというと

『素早すぎて誰にも掬えないんだよ。金魚すくいは出来てもめだかは、無理』

ということらしい。

金魚すくいは割に得意なので、そう言われると試したい気持にならなくもない。
無理だ、と言われると反骨精神がむくりと頭をもたげてくるのである。

臨也ほどではないがへそ曲がりな自覚は有る。
大体へそ曲がりでなくては読書なんぞにのめり込む訳がなかったのだ。
『男は家で本なんか読んでないで外で身体を動かせ』とよく言われた物だが、お陰様ですっかり活字中毒になってしまった。

その話を狩沢達にしたところ、一切否定されなかったので、まぁそんな物かと思っていた。
『ていうか頑固者だもんね、ホントは』
『へそ曲がり以外の何者でもないですもんね、門田さんは』
後の方のコメントに関しては流石に顔を顰めておいたが。

閑話休題。


兎に角「すくえない」ありとあらゆるものをめだかと呼んでいたのは臨也の方だったのだ。
しかしある程度時間をおいたあるときふと、

「お前達は本当に『めだか』だな」

とコメントしてみたところ、

「めだか? なんで」

などと間の抜けた返事を寄越した。
聞いた方は覚えているけれど、言った方はあっさり忘れる。
それがこの男にも成り立つ話だったとは思ってもみなかった。

臨也は、なんだか妙なところで抜けている。


「わからないなら良い」


あれからたっぷり二三年は経っている。
あの時点で既に覚えていなかったのだから、仮に今言ったところで通じない公算の方が高い。

それでも、聞かれたからには答えなくてはならない。
この水槽で飼っているものを表すのに、これ以上適切な言葉を、俺は他に知らないのだ。

/


「メダカ…?」

眼を細めて水槽の中を確認しているらしい。
抑も目が良くない臨也は、自分の目が悪いせいで見えていなかったのかとでも思ったんだろう。

「そう、『めだか』」

「ごめん、気付かなかった」

眉根を寄せて呟いた。

「まぁそういうこともあるだろ」

普通のメダカを探したのでは見つかるはずもないので、臨也には少し申し訳なく思った。

「何か読みたい」

そんな俺の心を知ってか知らずかそんな事を言う。

「飲みたいじゃなくて?」

聞き違えたかと一応確認しておいたのである。

「飲みたいのは飲みたい。けど、ここに来たら何か読まなきゃいけない気がしてさ」

それ、読みたいんでしょ。
指さしたのは先ほど袋から出した文庫である。

「そりゃ気遣いどうも」

ここにはもう臨也にとって目新しい本なんて無いだろうに、律儀にそう言ってくれた訳だ。
手っ取り早く無言で居てもいい理由を作るために。

「久々に太宰でも読もうかな」

あと飲むなら紅茶がいい。
二つの指示を同時に出すのは癖なんだろうか。
もう慣れたが、静雄なんかはとても嫌がりそうだ。

「珍しいな、何か有ったのか」

戸棚からインスタントのパック紅茶を取り出す。

「んー、いや。救いようのない話ってどんな物だったか思い出そうと思って」

目が合った。

「どうかした?」

「…いや、良い」

大人しくコンロのスイッチを捻った。








愛も欲望も何もかも
この水槽には重く救えない物ばかりが泳ぐ。






徹夜明けのテンションでばばばばっと書き上げたので正直見直すのが怖い。 めだか馬鹿って共通語ですよね?たまに心配になる。 2010/10/05