Suicide Marmaid

マーメイド。或いはマーマン。 単に男性形か女性形かの差で、日本語にすればどちらも人魚のことである。 マーメイドは美しく、マーマンは醜い、とも、人魚との間に出来た子は水かきが指の間に出来る、とも言われる。 どちらかと言えば北部ヨーロッパに多い伝承だ。 同じく半分は人間で半分は獣、という海の異形に、セイレーンというのが居る。 こちらは水辺にいるにも拘わらず下半身が鳥の形をしている。 美しい歌声で、船を難破させる化け物だ。 しかし、どちらも水辺の化け物の伝説として語られる内に話者としての民衆自身が二者を混同する。 時代が下るにつれ、ほぼ同じ物として扱われるようになっていく。 つまり、セイレーンが人魚の姿で描かれたり、人魚が歌を歌うようになるのだ。 水辺に棲む異形という大きな枠。 その程度の価値しか、与えられていないと言うことか。 アンデルセンの描く人魚は、物悲しく、しかし美しい。 愛した人間に会うために取引をし、わざわざ人間の姿になるも、結局、王子の生き血を浴びる、という人魚に戻るための条件を満たせず、泡になり消えていく。 所詮、異形の愛だ。 勘違いも後悔もそして淡いときめきも、冷たい海水に溶けて、消える。 そして暗く冷たい海の底で、全てを無に返す。 初めて読んだのはとても幼い頃で、だからこそその結末に納得が行かなかった。 いや、未だに納得など出来ない。 どうして王子を殺さなかったのか、分からないのだ。 俺なら、何の躊躇いも無く王子を刺し殺せる。 迷いも痛みも後悔もなく、ただそう有るべきものとしてその心臓を貫くだろう。 どうせ自分に振り向いてくれない王子じゃないか。 殺しても心など痛む物か。 況してや、お前は人魚なのだ。 人に恋をしたところでどうしようもない。 そんなことぐらい分かっていただろうに。 いや、寧ろ。 自分の手で殺してしまえるのならその方が余程幸せじゃないかとすら思う。 愛した人間の血は嘸や温かいだろう。 きっとその血に触れたところは焼け爛れてしまうだろう。 魚に人間の血は熱すぎる。 けれど触れた瞬間の煮沸するような痛みに安堵して、二度と目を覚まさず冷たくなっていくだけの「恋」と共に静かに海の底に帰る。 命を絶つ感触を生々しく記憶したまま、再び水底の―――熱のない世界へ帰って行くのだ。 そして、いつかは忘れる。 人間よりも遙かに長い寿命を全うするまでの間に、記憶はすり切れて泡になる。 苦い片思いの記憶なんて、真っ青な海の中ではどうでも良い事に違いない。 どうでも良いのだ。 波間に射す日差しを遠い過去の物とするうちに、あんな物は幻想だったと思えるようにすらなるだろう。 だから、分からない。 件の王子が命を懸けてまで愛するほどの価値のある男だったのかと気になってテクストを読み込んでみたが、やはりそれほどの描写など存在せず、未だ謎は解決しないままだ。 本質的に愛という代物が理解できていない以上、どうしようもないことではあった。 己にあるのは「博愛」である。 全てを等しく愛するということは、何をも命がけでは愛せないということだ。 それをおかしいだとか、間違っているとは到底思えない。 単に自分がそういう風に感じる、というだけの話なのだから、それに善し悪しなんて無粋なことを言わないで欲しいのである。 しかし、博愛と愛との間に越えがたい断絶が有ることは何となく理解している。 それはもう、致命的なまでに。 そして、理解していながらそれを何とも思わない自分には、恐らく人として重要な物がすっかり抜け落ちていることも重々承知している。 だから 人魚の姿を借りた人間の心なんてわからない。 はっきりとした指標もない物に対して命を懸けられるのなんて、ただの人間だ。 奴らはもっと、シビアでクールに世の中を渡り歩ける。 「俺なら刺すよ。寸分の狂いもなく心臓を一突きにしてみせる」 譬え、 命乞いをされても 金を積まれても 愛されても そんなもの、どれ程の価値があるって言うんだ。 「ああ、でもそうか。そう思うなら最初から人になんてなってはいけなかったんだ」 みずかきも鱗も無い手を開いたり閉じたりしてみる。 「―――どうして、人なんて愛したのかな」 首を傾げてみても答えは用意されていなかった。 「どうして、『人以外』を愛せなかったんだろう」 15歳の夏が、泡になる。

暑いので涼しい話を書こうと思ってた筈なのにどうしてこうなった\(^o^)/ 相方に苦笑されること必至ですがもういいや。 本にする体力とか情熱とか諸々に欠陥があったのでまずはネットに載せてみた。 追記:ロゴ気合い入れすぎwwwwwwww 2010/07/15