太陽が眩しかったから、人を殺すような
理不尽と不条理に彩られた

理解を求めればまた、崩れる。

『異邦人』

一見、異言語を喋る人間とのコミュニケーションの方法は、彼と俺との間のコミュニケーションの方法に極めて近いようにも見える。 ノンバーバルな部分、即ち言葉以外の部分を如何に効率的に利用するか、という所が焦点になる。 しかし俺の場合、言葉が通じないということその物が苦痛なので、外国語を出来る限り沢山習得することによってそれを防ごうとする。 そりゃ、母語に比べれば格段に意思の疎通は難しくなるが、一切言葉が通じない事に比べれば随分とマシである。 そんな訳だから、外国語をどれだけ覚えたところで全く言葉が通じない平和島静雄という男に関しては最早諦めの境地に到達している。 あれは、異邦人なのだ。 何処の言葉を喋っているのかすら分からないほど遠くから来た異邦人なのだ。 「シズちゃんはすぐにキレて暴力を振るうじゃないか」 俺はいつだって話も出来ない。 通じるはずの言葉が、全て拳でブロックされる。 喋り方がいいとか悪いとかそういう問題ではないと思う。 本人に聞く意思がないのだから、こちらがどのような言い方をしたところで同じ事である。 ―――不愉快なことに。 モニターの電源を落として、スリープモードに切り替える。 時折こんな風に、自分の電源も管理できない物かと思ったりする。 言語化すると、どこか嘘くさく滑稽な状態なのだが、本人は至って真面目にそう考えているのだ。 ヴァルハラが見てみたい、というのと全く同じトーンで、俺はそう考えている。 そしてそのどちらも自分の中で一切矛盾無く存在している複数の意見の中の一つに過ぎない。 考えというのは常に一定ではないし、最善も時間と共に変化する。 一本気なのは悪くないが、それは要するに固執であり、刻々と移り変わる世の中に適応できているとは言い難い。 だからこそ、そういった人間を眺めているのが好きなのだ。 見ている分にはこれほど分かり易く美しい生き方なんて他に無いのだから。 異なる、ということがどういうことか。 人々は中々それを理解しようとはしない。 同じ言語を共有し、相手の発言が理解でき、自分の発言が理解されていると感じているかもしれない。 しかし、そんな物は所詮まやかしだ。 お互いに相手を誤解しているかもしれない。 通じたと思っていた言葉は、全く別の意味で使われていたのかもしれない。 美しい相互誤解の中で、人は「わかり合えた」と思っているのである。 「まぁ結局俺は誰のことも分からないんだけど」 化け物はおろか、他の愛すべき大多数の人間のことも、 人間観察に勤しんでは孤独を深める愚かな男のことも。 「みんな異邦人なんだよ、きっと」 言葉も通じず、背負う文化も別々で、肯定否定すら理解し合えない、異邦人。 「俺がやってきたことも、これからやることもさ」 特に脈絡もなく積み重ねていった過去を、勝手に単純過去に置き換えられる苦痛。 有りもしない文脈を作り上げて、俺を理解したつもりになるんだろう。 そこには何の意図も、悪意も、存在しないというのに。 そしてやっと、俺は気付く。 コミュニケーション・エラーが起きるのは、あいつのせいじゃない。 俺のせいだ。 乾いた太陽光が燦々と降り注ぐ。 見下ろしたビル街の硝子に反射して、ぎらぎらと、目を刺してきた。 ブラインドを下ろして、息を深く吐き出した。 疲れた。 この疲労がどこから来て、どうすれば消えるのか、もう自分には分からなかった。 暗くなった室内で、静かに諳んじる。 読み過ぎて覚えてしまった短編小説の一節を。 『すべてが終わって、私がより孤独でないことを感じるために、この私に残された望みといっては、 私の処刑の日に大勢の見物人が集まり、憎悪の叫びを上げて、私を迎えることだけだった』 ―――きっと、太陽のせいで、俺はあの化け物に眩んだのだ。

新潮文庫版 異邦人の最後の一節を引用。 何となく雰囲気、という奴です。深い意味は有るかもしれない、無いかもしれない。 2010/09/10