「とある世界の片隅で」

白い頁の上に影が落ちた。背後から覗き込む気配。短ラン姿をちらりと確かめ、本に視線を戻す。 「なんか用か」 「ドタチンって、本を読んでると無愛想だよね」 「読書してりゃ、誰でもそうだろ」 つまり読むなって意味だろうが。 妙に大人びたところのある同級生は、いつだって回りくどいキャッチボールを求めてくる。 しかし慣れとは恐ろしいもので、拗ねるとも皮肉るともつかぬ声音で投げかけられた要求を聞き流すことはできなかった。 時間を持て余し、少々危険な遊びにも飽きてしまうと、退屈が嫌いな級友は決まって門田にまとわりついてくる。 友人の暇潰しと読書の続き、天秤にかけるより先に観念して本を置く自分はつくづくこの男に甘い。 その甘さを向こうもわかっていて寄りつくのだろう。折原臨也はそういう奴だ。気まぐれな、猫のような。 「……で、どうしたんだ」 「図書室の前を通りかかったらドタチンがいたから」 「入り口から見えねえだろ」 不審に思って向き直ると、端正な顔を振り向けて、黙って反対側を指す。はためくカーテンの後ろから秋の風が吹き込んで肌寒い。 「窓から入ったのか」 はらりとめくれた本の頁を慌てて抑え、戸締まりくらいしておけよ、と図書委員に毒づいた。 ともかく窓から転がり込んできた、しかも窓を閉める余裕はなかった……と、いうことは。 眉を潜めた門田に答えるように、臨也が肩をすくめて見せる。 「うん、まあ俺だって泥棒みたいな真似したくないんだけど。のっぴきならない事情ってやつ?」 言い終わらないうちに、下校前の生徒たちのどよめきに混じって、とうに安全地帯に逃げ込んで事もなげに笑う男の名前を、獣の唸りにも似た声が憎々しげに呼ぶのが聞こえた。 小さく溜め息をついたのは臨也にじゃない、臨也の事情も希望も正確に察している自分にだ。 立って行って、半開きの窓を閉める。鍵をかける音で外界からふたりきり取り残される。 悠々と机に掛けた臨也が本をぱらぱらと繰った。 「へえ、何を読んでるかと思ったらラカンじゃない」 イメージ違うけど、と嬉しそうに笑う表情には子供のようなところもある。 「ドタチン」 「なんだ」 「この世界が全部夢だったら、って考えたことはある?」 軽やかな口調は変わらないが、幼さは消え、かわりに造りものめいた横顔が冷たさを増した。門田は時々、目の前の男が何者なのかわからなくなる。 「ラカンか?にしても、随分と唐突だな」 「唐突?そうだろうか。世界は常にそういう不確かさを孕んでいるよ。もしかすると俺だって、君の無意識が創り出した幻影で、目が覚めると消えてしまうかも知れないね」 「そんなことは」 「ないって言い切れる?」 こんな幻影を視ているというなら相当の悪趣味だ。沈む日をうつして朱に染まる瞳。しなやかな夢魔を思わせる笑み。 その言葉によって平気で世界を覆す男は、不遜さと繊細さ、知性と美貌の、獣じみた危ういバランスの上に君臨していた。 「まあ、俺は消えたりなんかしないけどね。たとえ世界がなくなったって、そいつと心中するほど愚かじゃないさ」 「……臨也、」 「ねえドタチン。俺はなくならない世界が欲しい」 門田の言葉を遮って、贅沢な、というか突拍子もなく思える望みをいとも軽々しく口にした臨也は、小首を傾げてもういちど綺麗に微笑んで見せる。 世界が欲しいか。臨也らしい。思わず口角を上げた自分がすこし可笑しかった。 一介の高校生には過ぎた望みだ、けれど冗談でも比喩でもなく臨也はそれを欲している。子供じみたその純粋さだけで、この男は本当に何もかもを手に入れそうな気がするのだ。 でも臨也が手に入れる世界にきっと自分はいないだろう。別に、それで構わないけれど。 「……おっと、お出ましか。まだ諦めてなかったとは、全く往生際が悪いね」 臨也が静かに扉のほうを見やる。校舎の中で金属がへしゃげるような大きな音がして、女子学生の黄色い悲鳴が上がった。 既に窓際でカーテンに手をかけた臨也が動きを止めて、確認するようにゆっくりと振り返った。 「行かなくちゃ、ドタチン」 臨也は、何か門田の言葉を待っている。それなら言わなければならないことなんて一つしかない。 臨也が幼子の純粋さで望みを語るなら、こちらも同じ純粋さで語るまでだ。臨也と違って回りくどい駆け引きは苦手なのだから。 「俺も、お前に消えてほしかねえよ」 お前が今生きているのが、俺もろとも消えてしまうような世界だったとしても。 そう言った時、臨也は僅かに面食らったような顔をした、と思う。 もしかすると、開け放たれたカーテンの向こう側から差し込んでくる西日で、一瞬目が眩んだだけだったかも知れないが。 「だから言ってるだろ、消えるつもりは無いって」 いつもどおり不敵に言い残して、窓を開けるや臨也はするりと出ていった。 後には、開け放たれた窓から入ってくる秋風に煽られたカーテンがゆるやかに揺れている。捲れていく頁を、門田はもう、抑えようとはしなかった。

ほぼ原文儘。 改行はこちらの独断で入れました。 件ののサイトはこちら(別ジャンル/というかドラマジャンル注意) 2011/06/31