「甘い囁き」

「声ってなんだろう、新羅」 臨也が疑問の形で口を開くのはたいてい彼自身が正解を持っている時だ。古い友人としての経験から、新羅はそのことを知っている。 「喉頭と上気道を通る呼気による声帯の振動が作る音のことだよ、臨也。君が私に医学的所見に基づいた回答を求めたのだという認識が間違っていなければ」 「……そうだね」 包帯を巻く手は休めない。答えのほうもその手つきと同じように流暢で正確だった。 ニイ、と口の端を上げて笑うのは満足した時の臨也の癖だ。熟練の医者の敏感さで、新羅はそのことを知っている。 「もっと観念的な話をしよう。声が属しているのは肉体か、精神か」 「フロイトかい」 「この話を始めたのが、という意味なら」 「彼はたしか、声は肉体に属すのではないと言ったんだよね」 「そもそも肉体とは、それに宿る何者かに操られる物体にすぎない。そして人間というのは、動物の身体を支配する異物にすぎない。 ほら映画でよくあるでしょ?悪霊に憑かれたり……」 「異星人に身体を乗っ取られたり」 「映画では身体から異物を追い出そうと頑張るわけだけど、実は人間だって…… 人間というのが紛らわしければ、精神と呼ぼうか、精神だって肉体にとっては異物に変わりない」 「しかし精神が肉体と切り離されても存在できると言い切れるかい」 「それは誰にも分からないよね。でも精神が生きようとするエネルギーは肉体の存亡とは無関係だ……と、どうやらラカンは言ったようだ」 「臨也が借り物の、しかも曖昧な言葉で語るとはね」 「まさにそれだ、新羅。俺の声は借り物の曖昧な言葉なんて語りはしないと君が思うこと自体、俺の声が俺の身体を離れて独り歩きしていることの根拠になる。 ……まあ、多少暴論であることは否定しないけどね」 臨也は窓の外を見ている。硝子に映り込む瞳は暮れゆく空の色をしていた。 「言葉なんてどれも借り物だし、文字は劣化する。だが声は自分のものだ。声を操る人間そのものは借り物になれない。声は永遠だ。 声は過ぎ去ってしまうから、消すことも塗り重ねることもできないのさ」 「……つまり、君は一体何が言いたいんだい」 最後のひと巻きを終えた白い布に結び目をつくりながら、眼鏡の奥の双眸を細めて患者を冷たく観察する。 知己の気安さを研究者のよそよそしさで突き放す、微妙な距離感を新羅はよく心得ている。そう、臨也のかかりつけ医はとても優秀だった。 「いやあ、助かったよ。報酬はそのうちに」 包帯が巻かれたばかりの腕をそっと撫でてから、黒の長袖で無造作に覆う。 「つまり」 ドアノブに手をかけて、臨也は猫を連想させる滑らかさで振り向いた。 「声というのは異物としての人間が生きていることの唯一の発露、なのかもね。……また来るよ」 臨也が黒いコートを翻してドアの向こう側へ消えた後も、新羅の身体には聞き慣れた響きが残っていた。 たとえば臨也の心臓が動きを止めても臨也は語りつづけるだろう。 臨也の脳が溶けてなくなっても臨也の声は残るだろう。少し甘く響く声で、臨也に日常の一部を歪められた誰かの耳の奥で囁くだろう。 そして臨也自身がそれを望んでいる。 彼のような男が意外にも――いや彼だからこそ、不死などという荒唐無稽な理想を本気で描き、あるいは現実にしてしまうと思わせるのかも知れない。 新羅は知っている。なんの事はない、幾度も試してみたからだ。 どんなに打ち消そうとしても、新羅の想像のなかで、柩におさめられた黒づくめの化け物は、体温を失って美しく嗤うのだった。

ほぼ原文儘。 改行はこちらの独断で入れました。 件の秀純のサイトはこちら(別ジャンル/というかドラマジャンル注意) 2011/06/31