※三十代って…


メロウ

緩やかなメロディライン。 アドリブの効いたサックスと軽妙なピアノ。 太いが少し掠れた声のヴォーカルにブラスが程よく重なる。 落ち着いた店内に相応しい曲調だ。 ほんのりと赤味が差した頬にグラスを宛がって冷す。 からり、と中の氷が音を立てた。 「…シズちゃん」 隣にやっと聞こえるか聞こえないかの声で囁く。 然して量は飲んでいない筈なのだが、どうやら酔いが回りだしたらしい。 「なんだ?」 飲みさしのグラスを置いて同伴者を確認する。 いつもきつ過ぎる位の眼光を放つ目はとろりと胡乱気である。 崩れ気味の前髪が額に掛かって、いつもに増して幼い。 これが三十代成人男性である、と言われても違和感が有る位若く見える。 お互いに歳を取った…筈なのだが、俺にはこの男が老けていく様を想像出来ない。 高校時代からずっと知っているからか、最早差が分からない位この男を受容してしまっているからか。 何れにせよ、具合の良い答えではない。 「おいしい?」 やや空いて囁かれたのはとても簡単なフレーズだった。 鼻に掛かったような声が鼓膜に残る。 いつものさらっとした喋り方より幾分か甘えたように聞こえた。 グラスの中の琥珀と氷の溶けていくゆらぎ。 「そりゃ…旨いけど」 正直言って、味の違いなんて感じない。 普段から割と食事には無頓着な方だ。 その上、隣には機嫌良さそうにこちらを眺める男。 ―――こいつと居ると、味がしない。 何を食べても、何を飲んでも、全く、味が分からない。 序でに言えば、酔いもしない。 変に頭が冴えてしまって酔うどころの話ではないのだ。 「うわ、ひどーい。高いんだからねぇ、これ」 もう一度、念のために言うが「三十代成人男性」である。 「ひどーい」は…無いだろう。 「うるせぇな。酒は値段じゃないだろ…」 というより、何を飲んでいても一緒なら、安い酒で良いという話である。 吸収されているはずのアルコールは、一体何処に行ってしまっているのだか…。 「ほんと…奢り甲斐がないね、君」 ゆるりと上体をカウンターに崩す。 ここってそんなに緩い店なのか。 ちらりと確認したマスターは、何も言わず、ニコニコと笑うばかりだ。 …常連か。 「大体、ちょっと飲み過ぎじゃないか?」 完全に出来上がってしまっている。 大して飲んでいた覚えは無いのだが、場合によって少しの酒でも酔うことがある。 こいつが酒に弱かったかどうか、覚えていない。 「そうでもない…と言いたいけど、そうだね」 臨也はすうっと瞼を閉じた。 そのまま寝てしまうのかと思う程静かになる。 微かに揺れる睫毛が、淡い影を作った。 ベースの音がゆっくりとメロディを歌う。 僅かに赤みが差した頬に手を伸ばしてみた。 手の甲でなぞると、相変わらず柔らかくて恐ろしくなる。 本当に、いつ年を取る気なんだこの男は――― 「ねぇ、酔っちゃった。送って?」 / 店の常連の癖に、そんな露骨な事をいって良かったのかとか、 いつもあんな風に色々よからぬ調子で飲んでるのかとか、 寧ろいつもそんな風に一緒に飲んだ相手に言ってるのかとか色々考えてとても釈然としない。 「おい、そんなとこで寝るなよ」 広い部屋なのに、ソファに撃沈して動かない。 もう少し歩けばベッドだろうに、その手間さえ面倒くさがる。 「臨也」 声を掛けるとのろのろと上体だけ起こし、 「冷蔵庫の中にさぁ、ペットボトルの水が入ってるでしょ」 と言外に「取ってこい」と要求した。 この野郎、人を何だと思ってるんだ。 そう思いながらもやたら大きな冷蔵庫の扉を開けた。 火照った頬を庫内の人工的な冷気が冷ます。 どうやら飲みかけらしい500mlのペットボトルを取り出して放り投げる。 「冷たっ!もう…普通に渡してくれれば良いのに」 文句を言いつつボトルに直接口を付けて飲み始めた。 「手前が面倒くさがるからだろ」 何気ない風を装って隣に座る。 こちらは口から心臓が出てくるんじゃないかと思う位緊張したのだが、どうも、全く気にしていない様子である。 一周回って腹が立ってきた。 「えー?その位の気遣いはしようよ」 ねぇねぇシィズちゃぁん。 そうやって一音一音伸ばして発音する。 伸ばされた音の中に何らかの思いが含まれている。 良かれ、悪しかれ。 「聞いてんの?」 いきなり身を乗り出してきた。 それだけではない。 膝をきちんと押さえ込まれ、アルコールの滲んだ吐息が掛かる程距離を詰められる。 さっきまでぐったりしていたただの酔っぱらいが―――いや、今も酔っぱらいだが、 急に毒を持った爬虫類のような瞳で刺してくる。 「…聞いてる」 なんで自分が酔っていないのか、それだけが腹立たしかった。 酔っぱらい相手に正気で対応しなければならないことが大層苦痛である。 「ふぅん…」 そう言いながら周りに水滴の付いたペットボトルをぴちゃりと頬に押し当ててきた。 確かに冷たい。 でもそんなことどうでも良くなる位、頭が沸騰している。 つ、と水が頬を流れた。 思わず顔を顰めると、 「―――随分と大人になったねぇ、君も」 と、『酔っぱらい』はさも面白い事であるかのように囁く。 「いつから醒めてた」 ほぼゼロ距離での攻防。 いや、俺が一方的に防御に回らされている。 守る方が楽だとか、そんな適当な事を言った奴は取り敢えず舌を噛み切ってくれ。 ―――抑も、内にも外にも敵が多すぎる。 「さぁねぇ…まだ半分ぐらい酔ってるけど?」 薄い唇は軽く弧を描く。 「酔っぱらいは酔ってるなんて言わないだろ」 軽く頬を引っ張ると、確かに火照ってはいた。 やっぱり半々ぐらいなのか。 分からない。 「凄くベタな事を言えば、君に、だけど」 機嫌の良い猫のように笑う。 「ベタ過ぎるだろ…」 温いアルコールの香りのする呼気が唇を湿らせる。 そんなところで「待つ」なよ。 畜生、またか。 「今で57勝1敗1分けね」 厳密には俺は58敗目だ。 「大人げねぇな…」 負け惜しみを呟いて、ウィスキー漬けの毒を呷いだ。

うへへへ、念願の三十代ですよ先生。 しかしまぁなんだ。 生かし切れてない感満載過ぎて早くも穴があったら入りたい。 私をたきつけて下さった三十代マスターよしこ先生に捧ぐ。 2010/07/03