※阿良々木暦が大好きです。それだけ。


戯れ言黙々

端的に言えば、いや、寧ろ根本的問題に目を瞑ることそのものを看過して言うのであれば、僕は人間が好きだ。 多分。 それに確証を持っているわけでもないし、恐らく一生確たる証拠を掴むことなんて出来やしないだろう。 だって、具体的に形を持たない物を証明する事なんて不可能だ。不可能だからこそ懐疑論なんて物も生まれる。 しかし面白いことに、総ての存在を疑い続けた結果に残るのは「疑っている自分」という避けられない存在だ。 そればかりはどんな人間でも突き詰め続けても三日三晩頭を悩ませ続けてもほんの三分考えただけでも衝突する 不可視の壁のような物だ。それ以上疑うことは出来ない。どん詰まり。そこが迷路の最奥。 総てを拒否して内側に潜り込んだ結果が、「疑い得ない存在」としての「疑っている自分」だ。うまい駄洒落で はなくて。字面だけ見ればとんだバラドックスだが、実際のところ一ミリたりとも矛盾はない。それで正しい。 いや、正しいことなんていうのは世の中に存在し得ない訳だから云々。長くなりすぎる、飛ばそう。 で、飛ばしたは良いが元の話が何だったか分からなくなってきた。何だ。えっと、そうだ。人間を好きかどうか、 確かそんな話をしていた。ような気がする。 突っ込んでくれる会話対象が存在する訳でもなくただ漠然と脳内で一人討論を続けているのだから、それは自分 で管理すべき事柄だ。というより、自分の中での思考でこれほどまでにサービス精神に富んだ脱線をするという のはそれはそれで問題ではないかと思ってみた。しかし治す気は無い。楽しいでしょ? その方が。 博愛主義と偏愛主義というかそういう分類で言って俺は十分に博愛主義だ。厳密には、だった。過去形で語るの は今という遙か離れた時空から過去の自分を見て語るからであって、今現在の自分はどちらとも断定しがたい。 誰かのために命を捨てられると言うのが、それが固有の誰かの為なのであれば単なる偏愛だろうし、寧ろ人間存 在その物のために死ねるというのであれば博愛だろう。しかし未だ自分の中で愛という定義が決着できず、微妙 に宙ぶらりんになってしまっている。実に都合の悪いことに。 言われてみれば、愛だの愛じゃないだのそういった事を思うよりも何よりも、人との関わりが稀薄だったという か、人その物との距離があったというか、―――まぁ察してくれ。 そういう人生を送ってきた人間に果たして誰かを偏愛することが出来るのかどうか。ああ、面倒だな。もう少し 先の僕に聞いてくれ。多分答えられる。答えられなくてもきっと更に先の自分に問題を押しつけるだろう。だっ て自分の事だから流石にその程度の分析は出来る。友達付き合いとやらが無い分暇だからな。考える時間だけな ら幾らでも、有り余るほど有る。それに、「死ぬまでの時間」とやらが、僕には致命的に残されているから。 偏愛とは差別化することだ。特別視することだ。記号に意味を持たせ、それに応じて自分を動かすことだ。なら そこにはとてつもないエネルギーが必要で、常に区別し続けるための根拠ともなるべき何かが必要なのだ。 それこそが「愛」じゃないのか、と突っ込まれた気がする。違うかもしれない。まぁ良いじゃないかそういうこ とにしておいてくれよ。兎に角、だ。今ひとつエネルギーとしての「愛」とやらを想像出来ないのだ。 たかだか17年の人生経験でそんなこと分かるか、と言いたい気持ち半分、じゃあ自分の妹たちは一体どうしてそ のファジーすぎる概念を取得してるんだとか色々が残りの半分。 家庭環境が同じでも育ち方は全く異なる。良い例じゃないか。正に教科書に載せても良いレベルの具体例だ。 言い過ぎた。そうでもなかった。うちはある意味特殊例過ぎる。 そう言う意味では僕は極めて正しく博愛主義だ。妹もそう言った。区別することを放棄したのだ。押し並べて人 間というものを愛している。同時に拒絶している。どうだって良いのだ。さほど関心を払うべき事柄としてそこ に存在感を持たない。少し疑えば消えてしまうような仮定的な存在としての他者。それだけ。 未だに中学生引きずってんじゃねぇよ、という痛いセルフ突っ込み。しかしこの病気だけは何故か治らない。仕 方の無い事柄として自分の中に放置されている。まぁ多少人付き合いに問題は出るだろうが、実質人との交流が 無いのだから、人付き合いに於ける問題点もあってなきが如し。ざまぁ見ろ。何がだ。 そして博愛の過ぎる僕は人間という総てを愛して、無視して、放置している。等距離に全部の齣を置いている。 それに不自由を感じたことはない。少なくとも、今までの人生に於いては。 そう。あまり重要でもないかと思ったから言及するのが遅くなったが、これだけは言っておこう。気が向いた。 ―――僕は人間が好きなんであって吸血鬼のなり損ないは至極当たり前の事ながら枠の外に置いている。 全く、一切、毛ほどの矛盾も無くそれは僕の中に受け入れられる理屈として存在している。最早大前提として。 おかしいだろうが。 おかしいかな。 おかしいかもしれない。 おかしいと言うだろう。 まぁ正しさなんて代物がどこにもない以上、おかしさも主観的な感覚として胸の内に留めるしか無いだろう? 価値観次第では狂人と聖者が、救世主と魔女が、見事に反転してしまう世の中に僕らは存在しているんだから。

私の中で阿良々木暦は鉄壁だ。そして完成型だ。 ヘビー級の愛を注ぎつつ。 2010/08/01