微かに、鳥の音が聞こえる。 あれは、どんな鳥が鳴いているんだろう。 「不思議なものですねぇ…」 彼はぼそりと呟いた。 「何が、不思議なのかな」 問い返すとやや間が空いてから、 「音楽…いいえ、あなたとその芸術が、でしょうか」 と言う。 考えてもいなかった言葉に、僕は暫し言葉を失うしかなかった。

ヴォカリーズ

「どうしたの、急に」 やっと自分の言葉を取り返す。 まさか彼からマイナス以外の評価をもらうとは思わなかった。 不思議、という言葉を正負の偏りなく受け取れば、の話だけれど。 「ああ、いえ…大したことではないんですよ」 彼は手にしていた本を置いた。 勉強中の日本語は、未だひらがなしか判別できない。 書名は漢字が多すぎて、とてもじゃないが読むことなど出来ない。 「じゃあ、何があったの?」 推測できそうな手掛かりは全く無いのだ。 これではどんな名探偵でもお手上げだろう。 「…忘れてください、と言ったら怒りますか?」 どうにも、彼自身が戸惑っているように見える。 それはそうかもしれない。 普段口をついて出てくるような言葉と性質が違うと、どうして良いか分からないのだろう。 「怒りはしないけれど、忘れもしないね」 日頃の視線が冷たいと、少しのことで何だか幸せな気分になる。 安いなぁ、と自分では分かっているのだがこればかりは仕様の無いことなのだ。 鼻唄なんか歌ったら、彼は怒るだろうか。 「それは困りましたね」 ほう、と溜息を吐いて何かを思案するように黙り込んだ。 カーテンがはためいた。 緑の匂いが、風に乗ってここまでやって来る。 自分の土地より遥かに瑞々しい「初夏」の香りだ。 若葉の匂いなんてものは、ここで初めて知った。 青々とした草木を見るのも、温い風に吹かれるのも、とても素敵なことだと思う。 良い気候だな、と羨ましくなる。 …やっぱり南下しようかな… 「ドイツさんと似ている気もするんですけど、フランスさんとも近い」 また彼は唐突に話を始める。 「欧州の方は皆さん似たような曲を好まれるのかとも思ったのですが」 今一度こちらに視線を振ってくる。 「何かが違うんですよね。音楽には詳しくないのでよく分からないんですけど」 オーストリアさんにでも聞いてみましょうか…と、後半は自分の為に言っているようだった。 「僕に直接聞いてみるって選択肢は無いの?」 すると、驚いたように彼は目を瞠った。 「あれ、聞けば教えて頂けたのですか?」 彼はどうにもこちらを誤解しているような気がする。 ああ、誤解というよりもわざわざ「そういう」枠に押し込めているのか。 「君、何か僕を勘違いしてない?」 「いえ、全く」 即答だ。 潔いほどの即答だった。 「あのさぁ…まぁ良いや。あのね、僕の家はすっごく寒いんだ」 彼が考えを改めるとは到底思えないので諦めて話し始めた。 「ええ、知ってます。真冬は零下四十度にもなるとか…」 「そう、すっごく寒い。それと、民謡は聴いたことある?」 少し間が空いて、 「えっと…あれですね、テ…いえ、カリンカ、とか…」 今言いかけてやめたのは間違いなくあの携帯ゲームの名前だ。 まあ、確かにあれが一番ポピュラーな媒体かもしれないなぁ、と思い直す。 「うん、そうだね。それだけ知ってればもう分かるんじゃないの?」 「そんなものですか?」 どうにも釈然としない顔をしている。 でも、こればっかりは余り具体的に、或いは論理的に言葉を重ねたところでどうにもならないのだ。 そう言うと、昔の唯物論者なら酷く怒ったかもしれない。 或いは合理主義者にしても同じことだ。 感覚、などという曖昧なものを結論に持ってくることを彼らは好まないのだ。 「そんなものだよ。君だって、自分の得意な旋律がどうして他のアジアの国と違うか、言葉で全部説明できないでしょう」 「まぁ…それもそうですね」 全てを言葉に、或いは論理に出来るなんていうのは合理主義者の驕りでしかない。 現に、美しいものは理屈でどうにかなるものではないのだ。 「ただね…僕も君も他より少しだけ、寂しいメロディに魅かれるだけの話だよ」 殆ど冬しかない土地でも、四季の豊かな国でも。 「翳りはあるんですよ、どんな物にも。そうでなくてはおかしいでしょう」 それを一体どんな思いで口にしたのか、僕には測る術がない。 「君は」 「私ね、名前は分からないんですけどとても好きなメロディが有るんですよ」 歌は余り得意ではないけれど、と言い置いて彼が口ずさんだのは有名な歌曲だ。 「ヴォカリーズだね、ラフマニノフの」 その愁いを帯びた曲調が好きなのだと、彼は言った。 どうして彼と上手くやっていけないのか、今の自分にはどうしても分からなかった。
音楽の知識が無いのは、間違いなく私です。 ああ、恥ずかしい…。