あの日は雪が降っていたんだったか、何だったか。
兎に角、調印したその日のことは頭に血が上りすぎて覚えていない。
正に逆上せていたのである。
普通は、逆だ。
こう言っては何だが、あのときの俺は世界の中心だったのだ。
その俺の方が緊張で夜も眠れなくなるなんて、どうかしていたのだ。
…未だに、どうかしているかもしれない。
「こうして毎年いらして下さるのが楽しみなんですよ」
家の主は門の外まで出迎えに来てくれていた。
今日は生憎の雪模様だ。
いや、人様の国で見る雪に「生憎」とは失礼か。
彼は昔から使っている赤っぽい色の傘を差している。
「今年は生憎の雪模様ですが。…足下の悪い中ご足労頂きまして」
傘の内の彼と目があった。
同じようなことを考えていたことが少し気恥ずかしい。
「いや、別に俺のとこに比べたら何てこと無い」
かく言う俺は傘を差していない。
コートはその為に撥水加工生地なのだ。
「ですが、取り敢えず中に入ったら何か拭く物をお出ししますね」
そう言って俺の髪に付いた水滴を払った。
駄目だ。
何かもうすでに大分駄目だ。
一昨日から殆ど寝られなかったり、妙にそわそわしたりはしていた。
だが、実際に会ったらそれ以上にハイになってきた。
「いや、お前…そんなに気を遣わなくても良いんだぞ」
口から出るのは、それはまぁ、本心とはかけ離れた言葉である。
だが、こればかりはもうそういう性質なのだと諦めている。
寧ろ、心配なのはうっかりときつい皮肉を言いそうになる時であって…
「いえいえ、お気になさらず」
そう言って小さく微笑んだ。
ああ、神様。
俺はどうしてこうも恵まれているのでしょう。
日頃罵ってばかりの神に今日ばかりは感謝してやろうと思った。
/
「今お茶を用意しますから暫くそこでお掛けになっていて下さいね」
通された客間は、同盟締結の頃から変わっていないように思われる。
まぁ、ここしばらく毎年のように訪れているので、記憶が塗り替えられている可能性も否定できない。
畳を撫でると、少しざらっとした。
先程水滴を払い落としたばかりのコートは隣の部屋に吊られている。
庭先とほんの障子一枚を隔てているだけなので少し寒いのだが、一応屋内なのでマフラーも外している。
流石に行儀が悪いかと革の手袋を外そうとしたところに、家主が帰ってきた。
「あ」
お盆に茶器を載せて現れた彼は、一瞬とても奇妙な顔をした。
が、すぐに取り繕って盆を机に置いた。
「ん?どうかしたか」
問いかけると、またも少しばかり気まずそうな顔をして
「あー、えっと、火鉢取ってきますね」
とだけ言ってそそくさと逃げていった。
何が彼の中で引っ掛かったのかはよく分からなかったが、火鉢を持ってきてもらえるのは有り難かった。
本当に細かいところに気が付く。
彼のまめさは、仕事の精密さにも繋がる。
律儀に職務をこなす彼は、潔いほど真面目であった。
教えればとても早く覚えたし、忠実に再現しようとした。
それだけでなく、数々の独創性あるアレンジでこちらを驚嘆させた。
なるべくなら現代に於いても良いパートナーで有りたい相手である。
…恥ずかしいなぁ、俺。
本人が居ないのを良い事に何を考えて居るんだか。
やばい、なんかにやけてきたぞ。
これ日本が帰ってくるまでに直らなかったらどうしよ…
「お待たせしました」
「うわぁぁあ!」
何というタイミングだ。
「え、イギリスさん?」
こちらが素っ頓狂な声を上げたことに驚いたらしい。
それもそうか。
それまでの状況なんて知る由もないのだ。
「あ、いや日本、何でも無いぞ、何でも無いからな」
無理に平静を装ってみても無駄である。
最近気が付いたのだが、俺は割と表情に出る方なのだ。
自分ではうまくごまかしているつもりでも、顔を見れば一目瞭然、らしい。
「済みません、私何かしましたか?」
不安げにこちらを窺う。
「いや済まない、お前が悪いんじゃないんだ」
こちらが謝ると尚申し訳なさそうな顔をして
「いえ、私が驚かせるような何かをしてしまったのでしょうから」
とぺこぺこ謝る。
「本当にお前のせいじゃないんだ、これはその、俺が勝手に驚いただけなんだからな!」
何故かけんか腰になってしまう自分が情けない。
せめて弁解ぐらいまともにできないものだろうか。
「…はぁ」
まだ納得していない顔だ。
「だ、だから、俺が勝手にお前のこと考えてにやけてたんだよ!悪いか!」
これが所謂自爆、という奴である。
「………」
唖然としている日本。
ああ、そうだろうとも。
俺も今呆然としている。
正直にも程が有るだろうが、俺。
…ああ、どうしよう。
「………………日本」
「え、あ、はい。何でしょうか」
心なしか声が固い。
まぁ、あんなこと言われて平然としててもそれはそれで怖いしなぁ…
「悪い。口が滑った」
彼がよくするように、両手をぱちんと顔の前で合わせる。
すると、急にくすくす、と笑い声が聞こえた。
顔を上げると、
「じゃあお互い様ですね」
そう言って困ったように笑った。
/
さっきの言葉の意味を聞こうにも聞けずに夕食まで馳走になってしまった。
相変わらず、和食とはとても上品な食べ物である。
「最近の人はあまり食べませんけどね」
と彼は言うのだが、どうしてこんなに美味しい物を食べないのか毎度毎度とても不思議に思う。
「どうぞ、甘酒です」
白く濁った液面が揺れる。
湯気から仄かに日本酒の香りがする。
「ん、済まない」
器を受け取って、少し冷ましてから啜る。
「ふふ、やっぱり変わりませんね」
何の事かと尋ねると、何かにつけ「済まない」だの「悪い」だのと言う癖のことらしい。
「他の欧米の方がそう仰るのはあまり聞かないのですが、イギリスさんは口癖のように仰るので面白くて」
確かに、つい言ってしまう。
誰かとぶつかっても、何かを尋ねる時も、それ以外の時も何かにつけて口から出る。
「…やっぱりおかしいか?」
苛立たしいことこの上ない隣人はよくこの癖をからかう。
傲岸不遜な癖に言葉だけは謙虚だとかなんだとか。
…思い出したら苛々してきた。
また百年戦争してやろうか。
「おかしい…というより、面白いんです。遠く離れた場所にも自分と同じ癖のある方がいらっしゃるのかと思いまして」
彼は少しだけ器を傾けて、静かに眼を細めた。
「同じ…癖?」
「ええ。私もついつい「済みません」と言ってしまうんですよ」
「そうなのか」
「アメリカさんにいつも言われるんです。「俺は謝って欲しいんじゃなくて、褒めて欲しいんだぞ」って」
そう言って苦笑する。
想像に難くない状況である。
というか、ありありと場面が目に浮かぶ。
「済まないな、あんな奴で」
言ってしまってから、気が付いた。
彼も気付いたのか、視線がパチッと合った。
そうしてどちらともなく笑いはじめる。
何だかとてもくすぐったいような気持ちがした。
「そうだ、イギリスさん」
一頻り笑った後、彼が唐突に口を開いた。
「ん?どうした」
もう殆ど空になった器を片手に聞く。
「さっきの件ですけど」
さっきと言われて一瞬迷ったが、流れからして夕食前の話では無かろうか。
「おう」
「私もイギリスさん格好いいなぁって、口角が上がりっぱなしだったんですよ」
がたん、とバランスを崩した。
「え、大丈夫ですか?」
驚いたように声を掛けてきたが、残念ながら、驚いたのはこっちの方だ。
「待て、どういう事だ」
慌てて続きを促す。
「ですからね。手袋の外し方が格好いいな、と思ったら急に顔が緩んで来たので」
治まるまで逃げてました。
…神様。
どうしたんですか。
今日はどうにも機嫌が良いじゃないですか。
表情筋がみっともないぐらいに緩んでいるのが解る。
その上、酒のせいか何のせいか、かっと頬が熱い。
盗み見た彼は、機嫌が良さそうに笑っている。
「なあ、日本」
庭には先刻降り止んだ雪が積もっている。
冬の空は、どこまでも透明に澄んでいた。
「はい」
「やっぱり、お前と見る月が一番綺麗だな」
少しばかり欠けた月を眺めながら、これから先に思いを馳せた。
来年もまた宜しく
書いている本人が一番恥ずかしい。