梅雨時は余り気分の良い物ではない。 紫陽花は好きだし、雨は雨で風情のある物だと思う。 ただ、高すぎる湿度と暗い空にはどうしても憂鬱になる。 或いは、梅雨を越したら本格的に到来する夏のために澱を出し切っておこうとするかのようにも思われる。 夏になったら、暗い顔は出来ない。 陽の光が燦々と降り注ぐ中で不景気な顔をするのは申し訳ない、という訳か。 ぽたり、と滴が落ちた。 「全くもう…仕様のない…」 我が事でありながら他人事である。 泣くのは、泣かなくてはならないのは過去の私だ。 今の私は、決して泣いたりなどしない。 「今日は来客が有るのに」 それでも、切り捨てることの出来ない「過去」と「執念」が疎ましい。 …いや、完全に切り離せないからこそこうして「私」が涙を流すのだ。 「何て言い訳しましょうか…」 何も思いつかないまま、呼び鈴の音に返事せざるを得なかった。

過去の雨とメランコリー

昔誰だったかに泣き虫だと笑われた。 この場合の誰だったか、というのは思い出したくないから思い出さない「誰か」だ。 俺がめそめそするから俺の家は雨が多いのだ、と言い張っていた。 確かに、雨は多い。 冬場などいつでも薄暗く、霧のような雨がしとしとと歯切れ悪く降り続ける。 だが、俺だって別に冬の間ずっと泣いている訳ではない。 気分が沈みがちになるのは否めないが、気候と俺に直接の因果関係は無いんじゃないだろうか。 そんなことを考えるのは、現に目の前で泣いている彼のせいだ。 「本当に…そういう季節なだけですから」 何の理由も無いのだと言う。 顔も上げずに言われた所で、説得力などない。目を合わせて言えない言葉にどれほどの価値が有ろうか。 かといって覗き込むのは礼儀に反する気がして、ただ彼の声を聞いている。 ぱたぱたと雫が落ちる音がする。 蒼い着物が染みにならないかと、こちらがやきもきしてしまう。 ハンカチを差し出したら、受けとってくれるだろうか。 「だから…その…」 帰れとは言わない。 だが、実際に言いたいのはその一言に違いない。 感情が不安定な時に他人が居るのは落ち着かないだろう。 でも、言えないのだ。 いつも、大事な一言を自分の中だけに留めてしまう。 決してそれを口外しようとはしない。 それが彼の慎ましさ、なのだ。 「俺は、反省してる」 過去の自分が気付いてやらなかったことを。 彼が喉の奥で噛み殺してしまった言葉を、それでも聞かなくてはならなかった。 或は、何もかもを受け止めてやらなくてはならなかった。 彼に巣喰った絶望も孤独も。 その全てをただ認めて、抱き締めてやれば良かったのだ。 「貴方は何も悪くありませんよ」 そんな事はない。 目の前の事に手一杯だったから、お前を一人にしたんだ。 …そう、言えば良いのか。 「いつだって、私だけが悪いんです」 何かしら、思うところも有るのだろう。 言い表せない重みを感じるのは、長く積み重ねた物のせいか。 だが、同意してやる気は更々無い。 「…自虐が過ぎるぞ」 長生きをし過ぎたのだと、彼はよく言った。 その一言に含まれた毒が、今になって効いて来る。 そうだったのだ。彼は、ずっと静かに主張し続けていたのだ。 気付かなかったのは、俺がちゃんと見ていなかったからだ。 「済みません、そういう性なんです」 蒸すように湿度は高く、襖を開けずとも雨が強くなったことが分かる。 ぽーん、と振り子時計の音が鳴った。 もうどれくらいの時間こうしているだろうか。 下手なことを言ってこれ以上不安定にさせるのは良くない。 現状を打開できるような何か良い一言をずっと考え続ているのだが、考えれば考えるほど分からなくなった。 もう一度、彼の方を眺めてみる。 相変わらず顔も上げない彼に、ふと、あることを思い出した。 それを聞くのは非常に恐ろしい気がして、暫く言えずにいたのだが、今ならば聞いても許される気がした。 「あのな…」 切り出しても何の反応もしない。 別に聞き流してくれるならそれでも良い。 ただ、言わないと何の解決ももたらされない。 行動が全てを解決できるわけではないが、それでも俺は「賭」に出る。 「俺が死んだら、やっぱり泣いてくれるのか?」 ―――目が合った。 泣き続け、赤く腫れた目元。 それでも、驚愕の表情ははっきりと見て取れた。 「…何言ってるんですか?」 日頃何事にも冷然としている彼がこんなにも狼狽してくれるとは思わなかった。 ああ、少しは自惚れても良いんだろうか。 「時期が悪いぐらいでこんなにも泣くなら、俺の為にも泣いてくれるかって思っただけだ」 軽めの口調で聞いてはみたが、内心怖くて堪らなかった。 口に出してしまった言葉は戻らない。 あとはもう彼の反応を待つ他はない。 冷たい返事が返ってきたら、それこそ俺の方が「梅雨入り」しかねないなぁ、等と思う。 どうしよう、今はまだ乾期だから異常気象の報告をされるだろうか。 …あー、茶化されること請け合いじゃねぇか、そんなの。 「…あなたの為になら命だって投げ出せたんですよ」 予想していなかった返事に酷く動揺した。 「…え?」 質問に対する適切な回答ではないとか、そういったことではない。 ぞくりとするような視線。 うっすらと笑みの形に作られた顔。 雨音が、聞こえない。 「いっそ、あなたの為に死ねたならどれほど幸せだったか」 ああ、開けてはいけない扉を開けた。 「何…言ってるんだよ」 パンドラは開けてはいけない筺を開けて…で、どうなったんだっけ? 「御存知有りませんでしたか―――私の本性を」 何もかもふっきれたような口調だ。 でも、どこかに覚えのあるような…どう考えても初めて見るような代物ではない。 「ああ、そういうことか」 一瞬の閃きが全てを繋げた。 道理で噛み合わない訳だ。 急激に自分の血液が煮沸するような感覚に陥る。 長く忘れていた衝動に、思い出すことの無かった記憶に、カチリとスイッチが入る。 「―――知ってたら、もっと上手くやれたか?」 手を伸ばせば冷たくも熱くもない頬に触れた。 "あの頃"と変わりない滑らかな触感に、思わず苦笑いしそうになる。 「どうでしょう。でも、少なくとも今は上手く出来るんじゃないですか」 触れる指は冷たい。 蒸し暑い部屋とのコントラストが奇妙な物に思われた。 「そうだな」 熱を持った瞼の上に軽く口付ける。 ―――全ては、雨が止むまでの戯れ事。
メランコリックな祖国と空気が読めるんだか読めないんだかなイギ。