散るぞかなしき、宵待ち花の香

宵桜

「風が、吹かなければ良いのですが」 彼は静かに言う。 自分の嗅覚が確かならば、明日は雨だ。 風よりも尚、具合が良くないだろう。 「随分と花の心配をするんだな」 彼の風雅な所が好きなのだから、別に花の心配ぐらいさせてやれば良い。 解っているのに、つい余計な事を言ってしまう。 「心配…ですね、国民の一大関心事ですから」 自分の知っている限りでは、日本人は花を愛でる人々である。 先日は桃の花の香りがどうだとか言っていたのを聞いたし、もう少し前には確か白梅の下で白い息を吐いていた気がする。 それだけ、季節感と言うものを大事にしているのだろう。 「花なんて毎年咲くのにな」 見上げた枝は闇の中で淡く光を放つ。 薄い色の―――いっそ、白にも近い花びらが無音の中で存在する。 薄ぼけた月と、はっきりしない塊のような花達が、何やら近しい存在のように見えた。 「今年の花は今年限りですからね」 彼の微かな後悔を、俺は知っている。 「…散らない桜に価値はない、か?」 そうして、彼と同じぐらい俺も後悔していた。 「潔くないでしょう?」 手を伸ばしたかった。 その腕を、その肩を掴んで、引き寄せたかった。 それがもう叶わないことを、二人ともよく知り過ぎていた。 「雨が降る」 ぼそりと呟く。 小さすぎず大きすぎず、彼に辛うじて聞こえる程度の音量で。 「………ああ」 解っていたのだろう、あまり変化のない声だ。 自分のところよりは穏やかな気候だが、それなりに雨が多い。 湿度…というか、雨の前の匂いを知っている。 「多分、今日で見納めだ」 今年の分は。 そうして、同じように桜を見ることももうないかもしれない。 この先、ずっと。 「そうですか」 彼は何事もないかのように言った。 それがなによりも、彼の動揺を示していることはよく知っている。 「なぁ、桜は好きか」 見上げた枝は、自分には大きすぎて手が届かない気がした。 「好きですよ、とても」 夜の匂いに、やはり濃厚な雨雲の匂いを嗅ぎ分ける。 「散らなければいいと思ったことはないのか」 永遠に咲き続ける、その淡い色の花を見たいと思ったことはないのだろうか。 「…今までの私ならば、ないと即答できたでしょうね」 ひらりと一枚の花びらが落ちてきた。 彼の肩に乗った一枚は、また静かに地面へと落ちていった。 「なら、お前は」 「あなたが愛した今宵の桜を、おそらくもう忘れられないでしょうから」 静かに、静かに。 手を伸ばして、引き寄せることさえも躊躇われた先刻を嗤いたくなった。 もっと簡単にことは解決した。 「愛してる」 耳元で囁いた。 「いっそ殺してしまいたい」 桜の淡白な香りでさえも、忘れることができなさそうだと思いながら。 目が痛くなりそうな暗闇と白さに、酔いが回っただけだろう。 そうして、その思いを封じ込めることにどれほどの月日を要するかをぼんやりと思い描く。 落ちていく一枚と、地面に広がりつつある淡色の絨毯を眺めながら、静か過ぎる鼓動を聞いた。