胸が痛む。 骨が軋むような痛さでもなく、切られたような痛さでもない。 もっと内側が鈍く痛んだ。 嫌な感覚だ。 少しして思い至ったのは尊敬してやまぬ軍師の後ろ姿である。 「あの方も、このような痛みを抱えていらっしゃったのだろうか」 身体が泥に沈むようだ。 眠りたいのか。 ―――私が? 「眠る暇など、何処にも無い…のに」 しかし理屈の通じない身体はこれ以上動くことを拒絶したようだ。 膝が崩れたところまでは知覚できた。 その先は、知らぬ。

君知らぬ

「…っと、三成!?」 渡り廊下に何やら黒い影が見えた。 警戒しながら近づいて確認すると、倒れていたのは見知った男だった。 「おい、大丈夫か!」 肩を揺さぶってみるが返事はない。 ぎょっとして胸に耳を当てると、きちんと心の臓の音が聞こえる。 「…はぁ、びっくりさせるなよ三成」 そう言ってみてから、今の状況がやっと頭に入ってきた。 絵面が最悪だ。 これを誰かに見られたら、十中八九誤解される。 いや、誤解されるぐらいなら構わない。 しかし、三成の耳に入ることがあったなら、その日が徳川家康の命日である。 だというのに、耳が離せない。 規則的に打たれる鼓動が、少し気味の悪い程心地良いのだ。 「生きているのだな」 当たり前である。 今日の昼間も軍議で顔を合わせたところだ。 「…みつなり」 目を閉じてみた。 さっきよりも心臓が近く感じられる。 温かい血の流れまで、想像できるようだ。 息を吸う音が聞こえる。 穏やかな寝息だ。 仕事しか頭にないこの男でも、こんなに安らかに眠るのだ。 だが、最近の秀吉にはそんな些細な人間味すら感じられなくなっていた。 手段が目的になって、目的が死命になっていった。 その為に沢山の人間が使われ、捨てられていく。 「…お前などは一番先に壊れてしまいそうだな」 まともに寝ようともせず、こんな風に廊下で倒れるように眠るなんて。 私生活など無いと自他共に認めているにせよ、これは余りにも酷い。 「せめて、床の上で寝かさないと、な」 一旦身を離し、手足の長い身体を抱き上げた。 「!?」 蹌踉めいて危うく後ろに倒れるところだった。 なんだこれは。 軽い。 軽すぎるじゃないか。 寝食を忘れて仕事をする、とは言う物の、ここまで徹底されると眩暈さえ覚える。 「お前…どうなってるんだ…」 このまま力を入れて抱き締めたら、潰せるかもしれない。 死なないまでも、仕事は出来なくなる。 少なくとも、二度と戦場に出られぬ身体にできるかもしれない。 一生、この男には怨まれるだろうが。 それも悪くはない、と頭のどこかが考えている。 憎まれようが、罵られようが、構わない。 潰されてしまう前に、壊してしまいたいのだ。 「………いや、駄目だ」 今は取り敢えず寝かせてやらなくてはならない。 珍しく深く眠っているのだ。 折角の機会だからきちんと疲れが取れるまで、床に就かせなければならない。 そうして初めて、彼の私室がどこだったか知らぬ事を思い出した。 必ず有るはずだ。 しかし、そこに帰る姿など見かけたことがないのだ。 「刑部殿に聞けばわかるだろうが…」 どうにも、自分は好かれていない。 三成に触れることすら許さぬ、という殺気にも似た視線を感じるときがあるのだ。 こればかりは、人の相性、というものなのかもしれない。 「…怒るだろうなぁ…三成」 そう分かっていながら足は真っ直ぐに自室の方へ向かった。 たまたま近くで倒れていたのが悪い。 そう言えば納得するだろうか。 目が醒めた時を思って少しばかり憂鬱になったが、廊下で寝かせて風邪を引かれる方がもっと困る。 憎まれ役ぐらい喜んで買って出よう。 「…はぁ」 何に対する溜息か、わざと曖昧なまま放っておいた。 理解することは即ち、己を殺すことだ。 抱くべきでない情は、なかったことにしておかねばならない。 床を貸したので自分が寝られる場所もなく、大人しく書を読み耽っていた。 「…さま…」 何事か言う声がする。 灯火で起こしたかと振り向いたが、無用の心配だったようだ。 「ひでよ…さま」 「…夢の中ですら秀吉、か」 後ろ暗い思いがふつふつとわき上がる。 灯りに朧気に照らされた顔はとても美しく見えた。 火が揺れるのにあわせて、睫や鼻筋の影も揺らめく。 「ああ、駄目だな、これは」 どこか別の部屋に間借りしよう。 家臣には申し訳ないが、これはどうにもよくない。 「ん………」 寝返りを打った。 明かりが眩しかったのか、身体を背けるように。 ぼんやりと照らし出される頚があまりにも細い。 そこから背筋、腰、太腿と自然に視線が流れる。 踝まで目を遣って、やっと我に返った。 「……自覚していた以上に酷いらしい…」 見るから良くないのだ。 書に集中するか、部屋を変えるか、二つに一つだ。 そして自分の箍がどの程度強固か胸に手を当てて考えてみたが、 「…よし、部屋を変えよう」 情けないぐらい迅速に答えが出たのであった。 目が醒めて急に見知らぬ部屋に一人というのはとても混乱するだろうな。 そう思って書き置きの一つでもしようかと炭を探す。 「…やす」 思わず振り向いた。 鼓動が跳ねる。 いや、違う。 これはきっと聞き違いだ。 寝言とはいえ名前を呼ばれることなど有るはずがないのだ。 なんと都合の良い空耳か。 「おどかすなよ三成…」 冷や汗をかいた。 背筋が凍りそうな程、そのくせに火傷しそうな熱さで何かが這い上がってくる。 耳の側で早鐘が聞こえる気がした。 「いえ、やす」 今度こそ逃げられなかった。 聞き違いしようのないほどはっきりと、自分の名前が紡がれた。 あの唇が? あの舌が? 眠りの底で自分の名前を、呼ぶだなんて、そんな――― 閉じた瞼の裏がばちばちとせわしなく光った。 奥歯がうまくかみ合わない。 頭を冷やせ。 そう念じているのに、自分が統制できない。 寒気がする。 怖い。 吐きそうだ。 違う。 これが 「―――お前は、変な奴だ」 はっきりとした声だった。 それは決して夢の中からの声ではない。 意識のある、目の醒めている石田三成が、そう言った。 「………起きて、いたのか」 どこから? いや、最初から眠ってなどいなかったのか? ―――聞かれて、いたのか? 「いや。今、起きたところだ」 ごろりと寝返りを打ち、さっきとは逆にこちらに顔を向ける。 眩しそうに眼を細めて、手を翳す。 血潮まで透けて見えそうな、手を。 「…それは、良かった」 今起きてくれて本当に助かった。 今で、よかった。 「…妙な顔をするな」 それは一体何を指しての事だったのか、知らない。 しかし、今の自分には何よりも刺さる一言だった。 「すまんな、三成」 謝罪の真意など欠片も知らぬその男は 「あと半時…したら…起こ、せ」 と再び眠りの底に落ちていった。 力の入らない指先で、こちらの着物の裾を軽く握ったまま。 なんと恐ろしいことをする男かと、頭が痛くなった。 しかし、全ては君知らぬこと、だ。 深く息を吐くと、蝋燭の火が大きく揺れて、消えた。
家康の中で絶対的に美化されてそうな三成。 同僚時代には恐ろしく浪漫があります。 2010/09/12